実態

無傷のまま切り裂かれる、通り魔は不在のまま、実在のない世間だ。世界はいつも無自覚で、絶やしようのない根源に、僕らは怒れないまま、食堂のコップの水垢や、そういったどうだっていいものに苛立って、そんな自分を嫌悪する。ループ。吊橋の先、地面から橋を揺らす人、安全圏は抽選だってのに、あなた、そんなに偉いんですか。

夢がある

 夢っていつまで持ってていいものなのだろう。

 いつまでだって持っていていいよ、と人は言うだろうが、きっとそれには、「今守るべきものを犠牲にしなければ」と前置きがつく。犠牲を払わなければ辿りつけない場所に夢があるなら、その夢は持っていていいものだろうか。そうして、自らの夢を諦め、守るべきものを守る人を、私はとても強い人だと思う。保守的?そんな言葉で片付けるなよ、と、言いたい。しかし、そんな環境に置いても、犠牲を払っても、夢を追い続ける人もまた、とても強い人だと思う。犠牲を払うことによる責めを負う覚悟がある人をどうこれ以上責められようか。どちらも悪いし、どちらも良いし、正解は辿り着いた場所にしかないから、どちらの道に行っても、正解はあるし、その正解が必ずしも幸せなものとは限らないのだろう。もっとも悪いのは、夢と、守るべきものとの狭間で動けなくなってしまうことだ。往々にして、そこから這い出るのは、とても苦しい。それでも人は、そこに留まり続けることはできない。

淡い夏

 透明なものは、あってないように見える。それでも、触ればそこにあるし、光は屈折していくし、色なんて、あってもなくても変わらないのかもしれない、と思う。ただ、君が着ていた黄蘗色のカーディガンが眩しかった。遠ざかっていく君から、淡い夏の香りがした。今にも消えてしまいそうな、8月の終わりの香りだった。それ以外はすべて透明で、きれいな湧き水のような、夏だった。

病床にて

針と糸で
外套のほつれを繕うような
日の光を浴びた毛布で
やわらかくあたたかく包むような
代償のない慈愛をあげたい
何にでもなれるのならば
波になりたい
夜は静かな音を立てて
やさしい夢の中から
ここにいるよと教えてあげたい

月の満ち欠けに追い立てられて
人は老いていく
海馬が記憶の砂浜を駆け巡って
粒子は散り散りになってしまう

記憶越しにわたしを見ている
あなたの時は止まったまま
過去が現在の仮面をかぶり
あなたに笑いかけている

赤子のように
木々が重なり作る影や
風に揺れる枝の軋みに
不安がらなくて済むように
何にでもなれるのならば
熱になりたい
震える身体を抱いて
あなたに与えられた命の温度で
ここにいるよと教えてあげたい

止まったままのあなたの時に
そっと触れて
秒針を揺らしつづけてあげたい
潰えてしまうまで
無傷のふりをしながら
やさしくし合っていたい

パフェとコーヒー

 心が揺れ動いたときは、日記を書くより詩を書く方が、より正確に記録できる、と思ったのはずいぶん幼かったときのことだ。それ以来、それでも何か継続することに意味があるのでは、と、何度となく男もすなる日記といふものに手を出してみたのだけれど、何となくやめてしまった、それはそこに表された言葉の羅列を見ながら、私であって私でない人間がそこにいるような気がしてならなかったからかもしれない。

 今でも、自分の書いたものを見返して、書いたときの感情が吹きこぼれた鍋の湯のように溢れてきて、胸がつまるときがある。誰しもそんな風に思うんだろうか。過ぎ去ってしまった過去を眼前につきつけられる感覚、というのは、どこか物悲しい。

 このところ、余裕のない日常を送ってきました。と、恥の多い生涯を送ってきました、風に書いてみる。全てにおいて余裕がなくて、たびたび視野が狭まって、嫌になる。朝空を見上げて、朝の空ってこんなふうだっけ、なんて思えるようになったのはここ数日になってからです。ありとあらゆることに追われていて、追われたくもないし、そんな生活を望んでいるわけでもないのに、逃げなければならなくて、げんなりでした。忙しすぎると人間って生産性が下がると思うんです。そして更に忙しくなると思うんです。だめな日々だった。あえて一言で言う。よくない。

 余裕がなくなると心が揺れ動く余裕もなくなって、何にも心が揺れ動かなくなって、マイナスの振れ幅ばかり大きくなってしまう。何かプラスに心揺れるものを摂取していかないと。おいしくて美しいものとか。美しいパフェが食べたい。苺のジェラート、チョコレートソース、ナッツ、ウエハースに、生クリーム、ティラミス。夢が重なってるみたいだもの。きっと幸せになれる。そして、食後には、冷えた舌先を温める、おいしいコーヒーも。

 

 言い忘れるところでした。今年もどうぞよろしくお願いいたします。みなさんの温かさのおかげで、私は元気です。

雪の日に考える

 大雪だったね。

 しんしんというよりばさばさといった風情で降っていて,よりにもよって仕事に行く前にこんなに降らなくても,職場に着きさえすれば今日は中での仕事なんだから,と思いながら仕事に行ったら,ものの5分で外出することになり,地面の雪をびしゃびしゃ踏んで,職場の車に積もった雪を傘で払いのけた。外には,同じように何もこんな日に外出しなくても,という顔をした(偏見かもしれない)人たちが,同じようにモコモコのダウンを来て,手袋をして,傘を差して,車の雪を払っていた。雪は,受け入れる準備がない人達にとっては,すこし疎ましいものだ。遠くから見る(温かくて,座っているだけでも凍えなくて,濡れない場所から見る)分には美しいのになあ。あとは雪は降っている間じゃなくて,降り積もった完成形が美しいのだなとも思ったりする。降っている間は,美しいというより,切ない。

 そうして外に出ると今度は,子どもが短パンで雪の中を駆けていた。親が着せてくれたであろうモコモコのジャンパーを羽織り,膝小僧を眩しくはだけさせながら。私にもそんなときがあった。そしてなくなった。雪うさぎを拵えるよりも先に,冷えた手をホットコーヒーの温度で暖めたいと思う大人になっていた。

 用事を終えて,また,車に積もった雪を払って,同じように雪を携えた車たちを横目に暖かな室内に帰った。帰ってから,帰るまでにやんでほしいなあ,なんて考えた。

 子どもの頃,授業中降りしきる雪を見ながら,どうか放課後まで降り続いて欲しいと思ったことを思い出した。

尊いと思うこと

 アメリカ合衆国ではトランプ氏が大統領になっていて,今年は本当に激変の年だなあと思いながら,ジムに行って走って,帰ってきて詩を書いていた。もうワシントンでは夜が明けている。海の向こうでは,また激動の一日が始まろうとしている一方,日経平均株価がどっと下がった日本にいる私は,いつもどおりの一日を終え,眠ろうとしている。世界が大きく動いているからといって,いま,わたしに出来ることがあるわけではないのだけれど,他人事と思っているわけではないのだけれど,埋まらない距離や立場を少し憂いながら,眠りにつこうとしている。

 トランプ氏が大統領になったその瞬間,世界のどこかで絵を描いている人がいて,詩を描いている人がいて,生まれた子どもがいて,去っていった人々がいて,そんな当たり前の事実が尊いと思う。大きく世界が動いているその瞬間も,変わらず動いている世界があるというのが,当たり前のようで尊いと思う。

 政治を論じる力があるとは思わないので,論じることは専門家に任せるとして,私はこんな日も詩を書いています。ただね,世界に置いて行かれないように,私の周りのほんの小さな世界だけでも,ほんのすこしでもいいから,いい世界になるように,できることを探しながら,行いながら,生きていくことだけはやめない。

 政治の話を期待してブログに辿り着いた人がいたら申し訳ないな。辺鄙な世界に住む小さな人間のとりとめのない話でした。おわり。