切り取り方なんです、世界って。

 先日ダリ展に行ってきたのですが,同じく行った知人にそれぞれ一番気に入った作品を聞いてみると,みんながみんな違う作品を違う理由で選んでいて楽しい。この作品が一番胸に響いたといって見せられたグッズの絵を見て,私は全く思い出せないのも楽しい。

 人によって感性も感度も違うので,世界ってきっとまったく違う風に見えているんだろうなあと思う。私たちの多くの脳というのは視界にあるものすべてを把握していなくて,理解していなくて,照準を向けたものを切り取って理解しているようなので,その照準によっても全然違うだろうし,その人それぞれの経験や知識に基づいて判断された理解というのも全く違うだろうと思うので,世界はきっとあなたと私では全く違う色をしているんだろうと思う。切り取り方一つで,本当世界って違う顔をするんですよね。

 子どもの頃,『少女ポリアンナ』というお話が大好きで,言わずもがな少女ポリアンナちゃんが主人公のお話なんだけど,このポリアンナちゃんが,ドが付くポジティブ思考なのです。どんなことが起きても,そのなかで「よかった」ことを見つけ出す「よかった探し」をするんですが,このお話を読んだときは本当に驚いた。えっ、世界ってそんな見方もできるんだ,という。実際この「よかった探し」,なかなかむずかしいんですよね。人間って何で「わるかった」ばかり目が行ったり引きずったりしてしまうのか……ああ……。と,いう反省はこんな公の場でやることでもないのでさておいて。

 ポリアンナちゃんの世界って客観的に見て,幸せばかりじゃないんですが,というかかなり苦労をされているんですけども,子どもながらに,ポリアンナちゃんにはきっと世界は宝石のようにきらきら光って見えるんだろうなと思ったものでした。

 世界をきれいに切り取って生きていけるようになりたい。ただし,臭いものに蓋をするというのはまた全くの別問題なので,目を向けなければいけないものからは目をそらしたり,そこを除いて切り取ったりなどはせず。

 そして,誰かの切り取った世界と私の切り取った世界を比べたり交換して見たりして,ああ,あなたの世界も素敵ね,なんて,表現しあったりしたい。だって勿体無いじゃないですか。ひとつの世界しか知らないなんて。

 だから,最近人と接することが好きになってきました。だって違う経験をして違う人生を生きてきた人の世界を見せてもらえるのって,とても面白い。誰もがみんな,本を書いたり,絵を描いたり,音楽を作ったり,写真を撮ったり,なんて表現をしてくれるわけでないので,知ろうと思ったら,知るために話してみるしかないのだもの。そういう表現に不器用な人もまた,世界を素敵な切り取り方をしていることもあって,人と接することって素敵だなって思うんですよね。

 ただ,こんなこと数年前の私に言ったら,きっと不思議がるんだろうな。数年後にはまた,人と接するのはむずかしい,なんて悩んでいるかもしれない。一時的なものかもしれない。でも現在においては,決して嘘でないんです。

 そんなところで,まとまらないけど,終わり。

温度のない魔法について

 生きる時間のなかですれ違う人々を繋ぎとめようとする行為は、果たして自然なんだろうか。と、SNS上の顔も出会った場所も忘れてしまった“友達”を見て、思った。かと言って、“友達”から削除する積極的な理由も見当たらないので、浮かんだ疑問符は浮かんだまま、記憶の空に放たれる。一方で、顔も名前も住んでいるところも知らないのに、その人の発信に心を揺さぶられるということもあって、出会うはずのなかった人と出会ったような、そんな気持ちになる。インターネットは、すれ違うはずだった人を適当な距離につなぎ留めてみたり、知らないはずだった人に近しい好意を抱かせてみたり、そういうことが度々起こり得て、大変先進的だなと思う。

 私は人が生きている息遣いや感触や温度が好きなので、そういった温度のない繋がりだけではきっと物足りないけれど、嫌いではない。考えていることを発信して、自分を知っている人やないしは自分を知らない人に拡散されていくというのは、もはやテレパシーみたい。

 魔法みたいだったことが現代になっていくと、魔法の領域ってどんどん狭くなってしまいそうだ。魔法使いの仕事を科学が奪って行ったら面白いなあ。魔法使いも未来ではロボットに取って代わられる存在なのかしら。

 そんな取り留めのないことを考えながら、科学のことを考えると海が見たくなるなあと思う。甘いチョコレートを食べると苦いコーヒーが飲みたくなるみたいに。そして、人工的じゃない波音を聞きながら、人工的な甘さのアイスクリームが食べたい。

生きるってすこしいそがしい

 適度というのはむずかしい。それはおそらく、適度の度合いが人によってずれているからだ。その度合いというのは心の広さという言葉で表されるときもある。同じ行為でも、許容できる人と許容できない人がいる。だから、適度はむずかしい。それゆえ、わたしたちは、多数派におもねろうとしたりする。その多数派というのも一概には言えなくて、その人の属するコミュニティや、文化圏や、世代といった様々な要因によって規定されてくるものであって、結局適度ってなんなの、って感じに投げ出したくなる。

 かと思えば、そもそもこんなことを思ったきっかけというのは、必要以上に自分を卑下する人を見たからであった。その人を批判したいわけでも、面倒だなあと思ったわけでもなくて(そういうとき、私は思いの外無感情になって、客観的にその行動を眺めてしまったりするのが、我ながらとても冷たいと思う)、ただ、勿体無いと思ったのだけれど、そう思った後に、「そもそも必要以上にってなに?」と自分で自分に突っ込みをいれたのである。

 この場合、私にとって必要なあなたの卑下は0であったわけだけれど、一方で隣りに座っていた人は、1がちょうどよいと思っていたのかもしれない。もしかすると多数派というのは、1卑下が欲しい側にあるのかもしれないし、そうなると私は少数派であって、もし相手が多数派におもねろうとしての行動であったとするならば、私の「必要以上に」という判断のなんと傲慢なことでしょう。

 と、考えながら、やっぱり適度ってなんなの、と投げ出してしまいたくなると同時に、一瞬必要以上にとかそんなこと思って、ごめんなさい、と思ったりする。

 でも、そう考える私は私でいいんだろうか。多数派とか少数派とか関係なく、私は私でそう感じてしまったわけで、それを簡単に口にして、あなたを傷つけたわけではないし。でも、必要以上になんてやっぱり失礼な判断をしてしまった気もする。

 

 投げ出してしまえれば楽なのだとは思うけれど、でも人生はまだ長いし、今投げ出さなくてもいいと思っている。明日以降の宿題。そうやって毎日宿題を増やしながら、人生を生きていて、生きるってやっぱり、すこしいそがしい。

近づきたいものに近づきたい

 朝ご飯を買いに近くのパン屋に行った。朝焼きたてのパンは,どれもこれもが魅力的だ。「私に一番合ってるのはどの子かな。一番私を幸せにするのはあの子かな。」なんて考えながら,広くはないお店の中を行ったり戻ったりして,選択肢を絞っていく。絞られたメンバーはもう魅力度としては拮抗しているので,そこでまた迷いが生じるわけで。そして,配偶者のお盆をチラリと見て,選択肢の中のパンがあったりすると,「ああ,やっぱりその子,選抜入りですよね。」なんて思って,私も選んでみたりする。「私の判断,間違ってないよな。」なんて,確認が入るんだ。

 そういう小さい確認と共有の積み重ねで,少しずつ思考が似通っていってしまう気がする。そうして主張が一律になってしまうことを恐れている。と同時に,何十年連れ添った夫婦が醸し出す「似ている」空気に憧れたりする。「やっぱり夫婦だね。」なんて,元は他人だったはずの人々が似てくる理由なんて年月以外にないじゃない。素直に感心する。恐れと憧れが混在するなんておかしいのかな。でも,黄色と青を混ぜたら緑になるみたいに,反対色の混ざった感情だってあって不思議なことはない気がする。

 しかし,一律になりたい「君」と,なりたくない「君」がいるのも確かで。時間がそうさせるのなら,似通っていきたくないものとは,距離を取っていくしかないんだろうか。そうは問屋がおろさないのが,納税者たる社会人なのだけれども。

 どちらかというと,近づきたいものになるべく近づいていくという方が現実的だし,前向きな気がする。人類の歴史は長いし,世界の人口は70億人で,文化だって組織だって社会だって数えきれないほどあるのに,全く何にも影響を受けないなんてありえないのだから。そう,近づきたいものに近づきたいんだ,私は。

君の銜える煙草になりたい

 研究棟の外,普段はあまり使われない非常階段が,彼の定位置だ。そしてその定位置は,私の所属する研究室の部屋の窓からとてもよく見える。

 彼は,いつも同じ時間に,煙草を吸いに外に出て,雨ざらしで色褪せた階段の手すりに,気怠く身体をもたせかける。

 そんな彼をいつも見られるように,必ず同じ時間に研究室にいるようにしたのは私だ。だからこれは偶然でも奇跡でもない。作為だ。

 彼の居場所が見られるように,私は毎朝一番に研究室を訪れて,カーテンに少し隙間を作っている。

 そしていつも同じ時間,二限目の始まる鐘が鳴り,構内を闊歩する学生達の声が少し静まり帰った頃,彼はそこにやってくる。

 私は周囲に気づかれないように,窓の外を盗み見て,彼の銜える煙草になりたいと思う。彼の触れる手すりになりたいと思う。彼の触れるものすべてが,私の訪れることのない隣の研究棟のものだということが疎ましく思う。

 煙草の吸殻を捨ててくれればいいのに,なんて,馬鹿らしいことさえ考えもする。

 しかしながら,彼はいつも,チノパンの後ろのポケットから取り出した,洒落た携帯灰皿に,器用に吸い殻を入れて,私に気づくことはなく,私の居る研究棟に目を向けることもなく,足早に去ってしまうのだ。

 

 ああ、君の銜える煙草になりたい。

 君の名前も匂いも声も、吸っている煙草の銘柄すら、知らないというのに。