近づきたいものに近づきたい

 朝ご飯を買いに近くのパン屋に行った。朝焼きたてのパンは,どれもこれもが魅力的だ。「私に一番合ってるのはどの子かな。一番私を幸せにするのはあの子かな。」なんて考えながら,広くはないお店の中を行ったり戻ったりして,選択肢を絞っていく。絞られたメンバーはもう魅力度としては拮抗しているので,そこでまた迷いが生じるわけで。そして,配偶者のお盆をチラリと見て,選択肢の中のパンがあったりすると,「ああ,やっぱりその子,選抜入りですよね。」なんて思って,私も選んでみたりする。「私の判断,間違ってないよな。」なんて,確認が入るんだ。

 そういう小さい確認と共有の積み重ねで,少しずつ思考が似通っていってしまう気がする。そうして主張が一律になってしまうことを恐れている。と同時に,何十年連れ添った夫婦が醸し出す「似ている」空気に憧れたりする。「やっぱり夫婦だね。」なんて,元は他人だったはずの人々が似てくる理由なんて年月以外にないじゃない。素直に感心する。恐れと憧れが混在するなんておかしいのかな。でも,黄色と青を混ぜたら緑になるみたいに,反対色の混ざった感情だってあって不思議なことはない気がする。

 しかし,一律になりたい「君」と,なりたくない「君」がいるのも確かで。時間がそうさせるのなら,似通っていきたくないものとは,距離を取っていくしかないんだろうか。そうは問屋がおろさないのが,納税者たる社会人なのだけれども。

 どちらかというと,近づきたいものになるべく近づいていくという方が現実的だし,前向きな気がする。人類の歴史は長いし,世界の人口は70億人で,文化だって組織だって社会だって数えきれないほどあるのに,全く何にも影響を受けないなんてありえないのだから。そう,近づきたいものに近づきたいんだ,私は。