生きるってすこしいそがしい

 適度というのはむずかしい。それはおそらく、適度の度合いが人によってずれているからだ。その度合いというのは心の広さという言葉で表されるときもある。同じ行為でも、許容できる人と許容できない人がいる。だから、適度はむずかしい。それゆえ、わたしたちは、多数派におもねろうとしたりする。その多数派というのも一概には言えなくて、その人の属するコミュニティや、文化圏や、世代といった様々な要因によって規定されてくるものであって、結局適度ってなんなの、って感じに投げ出したくなる。

 かと思えば、そもそもこんなことを思ったきっかけというのは、必要以上に自分を卑下する人を見たからであった。その人を批判したいわけでも、面倒だなあと思ったわけでもなくて(そういうとき、私は思いの外無感情になって、客観的にその行動を眺めてしまったりするのが、我ながらとても冷たいと思う)、ただ、勿体無いと思ったのだけれど、そう思った後に、「そもそも必要以上にってなに?」と自分で自分に突っ込みをいれたのである。

 この場合、私にとって必要なあなたの卑下は0であったわけだけれど、一方で隣りに座っていた人は、1がちょうどよいと思っていたのかもしれない。もしかすると多数派というのは、1卑下が欲しい側にあるのかもしれないし、そうなると私は少数派であって、もし相手が多数派におもねろうとしての行動であったとするならば、私の「必要以上に」という判断のなんと傲慢なことでしょう。

 と、考えながら、やっぱり適度ってなんなの、と投げ出してしまいたくなると同時に、一瞬必要以上にとかそんなこと思って、ごめんなさい、と思ったりする。

 でも、そう考える私は私でいいんだろうか。多数派とか少数派とか関係なく、私は私でそう感じてしまったわけで、それを簡単に口にして、あなたを傷つけたわけではないし。でも、必要以上になんてやっぱり失礼な判断をしてしまった気もする。

 

 投げ出してしまえれば楽なのだとは思うけれど、でも人生はまだ長いし、今投げ出さなくてもいいと思っている。明日以降の宿題。そうやって毎日宿題を増やしながら、人生を生きていて、生きるってやっぱり、すこしいそがしい。