温度のない魔法について

 生きる時間のなかですれ違う人々を繋ぎとめようとする行為は、果たして自然なんだろうか。と、SNS上の顔も出会った場所も忘れてしまった“友達”を見て、思った。かと言って、“友達”から削除する積極的な理由も見当たらないので、浮かんだ疑問符は浮かんだまま、記憶の空に放たれる。一方で、顔も名前も住んでいるところも知らないのに、その人の発信に心を揺さぶられるということもあって、出会うはずのなかった人と出会ったような、そんな気持ちになる。インターネットは、すれ違うはずだった人を適当な距離につなぎ留めてみたり、知らないはずだった人に近しい好意を抱かせてみたり、そういうことが度々起こり得て、大変先進的だなと思う。

 私は人が生きている息遣いや感触や温度が好きなので、そういった温度のない繋がりだけではきっと物足りないけれど、嫌いではない。考えていることを発信して、自分を知っている人やないしは自分を知らない人に拡散されていくというのは、もはやテレパシーみたい。

 魔法みたいだったことが現代になっていくと、魔法の領域ってどんどん狭くなってしまいそうだ。魔法使いの仕事を科学が奪って行ったら面白いなあ。魔法使いも未来ではロボットに取って代わられる存在なのかしら。

 そんな取り留めのないことを考えながら、科学のことを考えると海が見たくなるなあと思う。甘いチョコレートを食べると苦いコーヒーが飲みたくなるみたいに。そして、人工的じゃない波音を聞きながら、人工的な甘さのアイスクリームが食べたい。